1995年1月17日に阪神淡路大震災が起きた年の秋、陸上自衛隊は、その前年度から、大規模震災対処演習を計画していました。

今からすれば、陸上自衛隊の世論に対する慮りも、大規模震災に対する社会全体の認識も、笑い話のようなものかもしれませんが、自衛官の心情と、当時の雰囲気が分かる思い出話を紹介します。

阪神淡路大震災の対処が一段落したとはいえ、復旧段階で、まだ復興の目途がつかないなか、大規模震災対処演習をするとなると、陸上自衛隊が大規模震災を宣伝道具にしていると批判されるのではないか、という懸念があり、非公開で実施しようという話で準備が進められていました。

私は広報室の報道係長でしたが、準備不足でメディアに公開せざるを得なくなるのは拙いと思って、「いずれ外部に知られて、公開しなければならないのは火を見るよりも明らかだから、最初から公開方針にした方がよい」と言っていたところ、公開して研修を受け入れ、広報室がそれを担当することになりました。

当時、広報室には8人しかいなかったこともあり、「当然、お前がやるんだろう」というので、企画全般から、ブリーフィング内容、部隊展示、メディア対応までフリーにさせてもらえたという、大変大らかな時代でした。

予想通り、演習への関心が高まると、関係機関、全国の地方自治体、米軍等々の希望数が膨れ上がり、研修受け入れに制限をかけるほど。演習間、朝から夕まで休みなくブリーフィングすることになりました。 

研修は、自衛隊の救援活動が遅れたのではないかという批判に応えて、自衛隊の災害派遣の実態を知ってもらうことに狙いを置いて、約2時間半で構成。次のような内容でした。

①災害派遣の基礎(要請手続き、部隊・隊員の一連の行動、車両縦隊やヘリポートや展開地の規模感等々)をブリーフィング、

②写真パネルで災害派遣の歴史と活動の実態を展示・説明、

③災害派遣食等を試食体験、

④東部方面隊が部隊の行動を具体的にブリーフィング、

⑤グラウンドで部隊装備品を見学。

自分で言うのもなんですが、切り口を変えながら、多面的に災害派遣の実態を訴えかける内容は、非常に好評でした。

当時、中央防災会議と東京都が公表している被害想定は、発災時期が違うシナリオを採用していたため被害規模の見積にかなりの差がありました。つまり、国の施策から現場の対策までが一貫したものではありませんでした。

現在と違い、まったくと言ってよいほど被害想定は知られておらず、関東大震災の再来に危機感を持つ人は、非常に限られていました。

そのような情勢下、中央防災会議及び東京都の被害想定に基づくシナリオを公開すると、陸上自衛隊が(被害を誇張しているかのように)「大震災を煽っていると言われかねない」という心配が強く、演習のシナリオは公表しないという方針は変わりませんでした。

演習ですから、一部、訓練の訓練のために陸上自衛隊独自の判断でシナリオに手を加えている部分がありましたから、誤解を招かないためには当然と言えば当然の方針でしたが、重箱の隅をつつかれることを心配しなければならない環境だった、ということです。(こういうところは変わらないかもしれませんが)。

地方自治体がハザードマップを公表すると、一般市民、不動産屋などから「土地の評価が落ちる」というので猛烈なクレームが出て、それがメディアで取り上げられ、一度公表したハザードマップを取り下げる地方自治体があるほど。そのようなクレームが当たり前に受け入れられていて、「それも仕方ないな」とされていたのが、25年前の一般的な社会情勢でした。

広島県での土砂災害や岡山県での水害が起こったとき、ハザードマップが知られておらず、対策が十分にとられていなかったのは、そのような社会的背景があってのこと。

リスクを訴える人が防災を真剣に考えている人で、被害想定を深刻に語らなければ「認識が甘い」と叩かれかねない現在の社会環境を考えると、人の意識の移り変わりを感じます。

行政は、気象条件の変化(異常気象)ばかりではなく、科学技術の変化も、人の意識の変化の機微も、しっかりとらえて半歩先を見据えて、施策していかなくてはなりません。

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