《「話が面白いから」・・・確かに、そう言ったなぁと・・・、大変失礼いたしました。もうちょっと深みのある表現をすればよかったのですが、私がそんな表現をしようとしたら、きっと臭くて、受けていただけなかったでしょう。

でも、これをお読みの方々は、決してこの人選は間違っていなかった、と感じていただいていると、確信をもっています。

ところで、「学ぶ」と「まねる(まねぶ)」の語源が同じだということなのですが、日本語の生まれたる由縁というのは、実に奥が深いもので、人間の本質を実に的確に表していると思います。》

今回、エッセイのお話しをいただきまして、小学生のとき国語の点はずーっと2だった私に、「どうして私なのか」と聞くと、答えは「話が面白いから」だそうで、でも話が面白いのと、それを文章にするのはまったく別物なのに。

小学生のときに、3人の素敵な人に出会いました。

その一人は、岡野の寺の裏に住んでいた女性で、1年の時から同じクラスでした。入学した初日に、「あれ!変な子がいる」と思いました。常時、身体を動かしていたので、それに歩くのも大変そうに見えたのを、今でも覚えています。彼女は、小児麻痺だったのです。その後、6年間、同じクラスだったのですが、正直、そんなに親しくもなく数回しか会話を交わしたことがありませんでした。

なんせバカだった私は、小学校では遊ぶことしか考えていなくて、学校から帰って母親から「利男!鞄はどうしたの、ランドセルは?」と云われて、学校に忘れてきたことに気がつくような子供でした。弁明すると、幼稚園までは几帳面で、真面目で、お風呂では洗い場をきれいに洗い、全部の手ぬぐいをキチンと掛けないと出てこないような子供で、母は「将来どうなるのだろうと心配していた」と。でも「あのランドセル事件で安心した」と云っておりました。

話がそれましたが、彼女は、体育でも大変そうでしたが、皆と同じように行っていました。それを見ていて、最初は「偉いな。自分だったら挫けた」と思いましたが、そのうちそれが当たり前になり、特別視しなくなったのです。彼女からは、色々な人がいて良いのだと云うことを自然に教わっていたのでした。

卒業後、彼女は、港区広尾にあった順心女子学園に進み、結婚し、子供を産んで、幸せに暮らしておいでだと聞いております。

もう一人は、男子の中澤君で、確か5年生のときに引っ越しして区外から弟君と都電で通っていました。小学1年のときから卒業するまで、怒ったところを見た覚えがない子でした。子供ながら、「何と男らしい男だ」と思っていました。

そしてもう一人方、それは丁野先生という女性の教師の方です。

算数の授業で1㎡が分からない子がおりました。先生は分からない子に粘り強く、色々な方法で教えておいででしたが、どうしても理解できない子のために、教室の中央の子供たちに机と椅子を移動させて広場を作り、そこに1辺が1mの正方形をチョークで書き、その子に横が1m、縦が1mと、丁寧に説明されて、ようやく理解できるようになさり、更に、そこに長い物差しを立てて、1㎥メートルを理解させておられました。

たぶんこの子は、文字で表した平方メートルの“平方”が分からなかったのかと思います。そしてそれが理解できたことにより、立方メートルの“立方”、すなわち㎡と㎥が良く理解できたのではないかと思います。机を移動させているときは最初、「なんで?」と思っていましたが、「この人は本当の先生だ」と思ったのを思い出します。

逆に、「こんな先生はいらない」と思った人もありました。あえて書きますが、図画図工の教師でしたが、4年生のときの写生の絵でディズニーのキャラクターを描いていて「こんなものをまねても何にもならない」と云われたときに、この人は何も分かっていないのを見抜いてしまいました。

なぜかと云うと当時、ブリジストンの社宅の子がたくさん麻布小学校に通っていたので、石橋さんがピカソの名画を寄付してくださいました。その絵は、階段の踊り場に掛けてあり、子供ながら、ピカソの名は知っていましたが、何を描いたか分からないので興味を持って調べましたら、ピカソが子供の頃に描いた絵がアルバムに載っておりました。

その絵はまるで写真のようでした。この人にはピカソはもったいないと思い、以後、この人を信用しませんでした。 私の職業も物を作る仕事なので、頭で描いた料理がその通りつくれるかが大事で、その第一歩がまねることなのです。