《ずーっと先祖をさかのぼっていくと、日本人皆、どこかで血がつながっていることになってしまいます。そういう人のつながりに気がついたとき、奇遇だね、偶然って恐ろしいね、何かの縁だよなって言っていたつながりが、偶然ではなく、必然ではなかったか、と思えることがあります。

人の付き合いも同じで、一期一会、大切につないでいきたいものです。》

お墓の話が出てきました。

コロナの件で、改めて予約帳を見ると、3月26日が最後のお客様で、4月から5月にかけて、予約が鉛筆で全部×になっていました。フランスのドミニックから電話をもらったときに、4月は店をしめていようと思い、4月からこの文章を書いている5月13日まで休みに、そして5月末まで休みにしていました。

とにかく人との接触を避けることが一番大切だと思い、食料品を買いに行く以外、外に出ないようにしようと思っておりました。これが意外に大変で、最初、家内に「フランスの1ヶ月のバカンスはこういうことなんだよ」なんて軽口を叩いておりましたが、狭い部屋に二人でいるのも大変で、私は下の店に、家内は店で着る洋服をミシンで縫って生活しております。

運動をしないので朝と夕方に1時間ずつ散歩するようになり、人がいないところとなると、そう、歩いて2分もかからないところに青山墓地があるではないかということで、墓地のなかを散策して歩いておりました。すると、こんな人がとか、こんな大きなお墓がとか、そして法事や祈念祭でご用をいただいている方々のお墓がここだったのかと、色々な発見がありました。

通い始めて10日ほどたった頃に、青山霊園管理事務所を出たすぐの所に乃木将軍通りと書いて矢印⇒があり、「あれっ、乃木さんは乃木神社に眠っていらっしゃったのではなかったのか」と思いました。幼稚園の頃、家から大人の足で5分ほどの所にあった乃木神社は、唯一、一人で遊びに行けるところで、毎日、砂場遊びに行っていたのです。

そんなことで、乃木さんのお墓を見つけようと、家内と乃木将軍通りのお墓を一基一基、見て歩いていると、ありました。乃木さんらしい質素なお墓が夫人のお墓と、そして日露戦争でお亡くなりになったお二人の息子さんが、こちらに眠られていたのです。

大変失礼ですが、私にとって乃木さんは、乃木将軍ではなく、もっと親しみやすい乃木さんだったのです。

子供の頃、祖父も祖母も龍圡軒の歴史について話すことはなく、しかし子供ながら、世間の私を見る目が他の子供と違う料理屋の息子だと、小学校のクラスでも感じ取っていました。フランスに渡って本当の自由を手に入れたのを楽しく覚えておりました。

フランスから帰国してからも、両親は、私にとって龍圡軒の過去が邪魔になると思って一切そのことには触れずに、自由にさせてくれました。そのいい例が、恥ずかしいのですが、最初のメニューに日本語を書いていなかったのです。両親は何も云わずに、一事が万事、自分が気付くまで黙って見ていてくれました。

世間では、私は龍圡軒の四代目なのですが、私にとって、店は0から始めたものなので、このコロナでも自信を持って店を続けていけると思っております。

とはいえ、龍圡軒の100年を記念し、父が本を出しまして、こういう過去があったのかと分かるとともに、大事にしなければと思います。

今も、森鴎外さんのお孫さんや伊藤博文さんのお孫さんなどがお越しいただいておりますので、話を元に戻すと、乃木さんのお墓参りの後に、インターネットで青山墓地を調べてみると、明治からのお客様が結構眠っておられましたので、管理事務所を訪ねて霊園案内図をいただき、お参りを開始しました。

岡沢精(くわし)様(明治天皇の初代侍従武官長)、緒方竹虎様(朝日新聞論説主幹、緒方貞子さんの岳父)、岡田三郎助様(画家、絵が2枚ありましたが空襲で焼失)、国木田独歩様(詩人、独歩書の漫画があります)、斎藤茂吉(医師、歌人)、頭山満(黒龍会の重鎮、玄洋社の総帥)、乃木希典様(日本陸軍大将、学習院院長、閣下より拝領の壺があります)、吉原重俊様(初代日本銀行総裁)。

こんなにたくさんの方々が眠っておられるのをもっと早く知っていればと思いました。

話は大きく飛びますが、これも飛ぶ話なので。

羽田への新飛行経路が青山墓地から500m離れたところにあり、高度750mで、4~5分おきに、大きな音とともに飛んでいます。ちょっとびっくり。