この文字、何の字か分かりますか?(その1)

「幸」の文字の元、象形文字です。

この語源と意の変遷を知ると、その意味の深さに、ちょっと驚きです。

「幸」は元来、手械(てかせ)を表わす象形文字でしたが、幸いにして刑を逃れるという意から、のちにそれを願う意になったとされています。

束縛から解放されたいという願望から、束縛から解放されること自体を「幸」だととらえるようになったのです。

束縛があっては、「幸」にはなれないということでしょう。

古人は、「幸」をどのようなものだと発想したのか。

振り返って、私たち現代人の「幸」はどうなのか。

表現の自由、発言の自由だと言って、軽々に他人を批判する人があふれています。

が、中身は何もなく、そこには正に批判しかなく、具体的な意見や主張が存在しないので、批判する相手を貶める結果だけが残り、建設的な意見を述べ、新しい発想を語ることを妨げてしまっています。

討論(ディベート)だと称して批判することがまかり通り、不自由を生んでしまっている。

「幸」の象形文字は、私たちが当たり前のように思っている「自由」であることの意味を考えさせる古人の哲学が表現されています。

この文字、何の字か分かりますか?(その2)

「幸」にはもう一つ、報復刑の意味があり、手かせに服する人の形を「報」と言います。

「報」は、報復、報徳、報恩、報怨、報仇など応報の関係を示す意で用いられています。

「因果応報」、すべてのものには原因があって結果がある。

良い種をまけば良い結果が起こり、悪い種をまけば悪い結果が起こり、自分が蒔いた種が自分に結果として戻ってくるということです。

防衛論議、安全保障論議が盛んになっていますが、私たちが得ることのできる安全安心という「幸」はすべて、過去の行いから生まれた「応報」の結果でしかありません。

安全保障では、とかく相手国だけに原因があるように言ってしまいますが、よく考えると、自分たち自身に問題がある。

自分たちの努力が不足して不安になるから「平和を愛する諸国民の公正と信義」という他力に頼み、あるいは「脅威だ」と声高に言う結果になるのです。

ウクライナも一国二制度も、そして日米関係も、「応報」の因果から逃れることはできません。

私たちが目指す「幸」は、自分のことを自分で決める精神の自由がある「幸」でなくてはなりませんし、意志決定の自由があるならば、今の状態は、自分が撒いた種から生じたものでしかありません。

心に手かせのない発想で、自分自身が安全安心に自信を持てる、真の「幸」のある国を作ることが安全保障の目的だと思います。