《 単身渡仏して、ノイローゼになったにも関わらず、「フランス社会で生きることを決める」。何かを追い求め、追究しようとしたときの、18歳のエネルギー、人間の力強さを感じます。そのエネルギーの源となり、支えとなったのは、目的意識とともに、師匠との絆や仲間とのつながり・・・・。これは人間が人生のなかで出遭う、さまざまな障害、困難、災害に打ち勝って、生きていくために求められている“レジリエンス”の核心になるものです。 》

Arrete de Travaileアレ・ドゥ・トラバイユ、仕事禁止をご存じですか? 

病気や事故などにより、医師から法的に、一定期間の就労禁止命令が出されるのです。フランスに渡った翌年の2月に盲腸炎になってしまい、手術をして、1ヶ月間仕事を休みました。

そのとき、私より1年前にフランスに来ていた、リッセで寮(リッセに入ったとき、日本語を使わないように寮に入っていました)の舎監をしていた矢嶋さんにお世話になりました。2年前、突然にお電話をいただき、もう52年間、パリで暮らしていると伺いました。フランスに渡ってすぐの頃、矢嶋さんが心配して、多くの日本人を紹介してくださいましたが、その方たちは皆、日本人社会で暮らしていらっしゃったようで、あまりフランスのことは分かっていないように思いました。

同じようにならぬよう、私は、フランス社会で生きることに決めました。

最初の見習の給料は、日本円で1500円くらいでしたが、それ以外にフランスでよく言うNourrit.Loger.Blanchit食事、住居、洗濯(シーツ)が付いているので何とかなります。毎月のように給料が上がっていくのが楽しみでした。冬が明け、春が来る頃には、少しずつ仕事にも慣れ、さまざまなことを覚えていき、本当に我が世の春でした。

また色々なことを教わりました。調理場の壁の一部が仕上がっていなかったので、師匠と二人で左官をして、タイルを貼りました。これも物を作る基本で、最初が一番大事で、時間は掛かっても、きちんと作ることを学びました。

休みにはプロターニュに鱒釣りに連れて行ってくれたり、イノシシ狩りに勢子で連れて行ってもらい師匠のご友人(パリの有名な料理長ら)を紹介していただいたりしました。

仕事が終わってから飴細工を教えてもらいました。夜中の1時くらいに作っていると、Madame Delavegne奥さんに「あんた達、今、何時だと思っているの。早く寝なさい!!」とよく怒られました。

時には、店のバーで色々な話を聞かせてくれました。絵画や音楽、また戦時中の捕虜収容所の話、ナイフとフォークを取り上げられたので、枝で箸を作って食べていたと言っていました。左利きなのですが、右でも左でも器用に、上手に箸を使います。

先日暁星の同級生だった泉名君が食事に来たのですが、彼は昔、マキシムでボーイをしていました。師匠がマキシムでフェスティバルをしたときに、調理場で、夜食に取った出前の寿司桶から、皆と一緒に、箸で食べていたのを見て驚いた、と話していました。今なら分かりますが、今から48年も前のことです。

2年目からは、後輩と言っても私より年下ですが、皆、他の店で3年の修行をしてから来た後輩が入ってきました。菓子屋から来たパスカル、調理師のドミニック、ジャンリュック、チーフのジャン・ミシェル・ベディエ。皆いい仲間でした。

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