《岡野さんのエッセーを読んでいると、よくこんなに詳しく覚えているものだな、と感心させられます。私は、子供の頃から、日記や学校での作品など、すぐに捨ててしまうので、「そういうのにこだわりがない子だね」と、よく笑われていました。

昔のことを思い出そうとすることもなかったのは、そういう性格だから、だったのでしょうが、面白いもので、岡野さんのエッセーに引きずられるように、自分の記憶が浮かび上がってきました。 これは語れるかな、と思った反面、そもそも記憶力に自信がないので、それが本当の記憶なのか、どこかですり込まれた記憶なのか、思い込みで作られた想像的記憶なのかは分からない。私の記憶装置は、そんなレベルなのでしょう。》

私は東京渋谷にある日本赤十字病院で、1952年(昭和27年)8月8日に生まれたそうです。記憶にないので「はい」としか云いようがないのです。

私の記憶で一番古いのが、たぶん2歳ぐらいだと思いますが、私が生まれた記念に作られた木製の盥(たらい)に、私より先輩の黒色の犬、クロと一緒水浴びをしている画像です。

その次は、4歳になる少し前ぐらいだったと思いますが、帽子を被った赤いスカートをはいた女の子のお人形を背負って、大きな(普通の)箒で龍圡軒の調理場を掃いていました。これも鮮明に覚えています。

次は、同じく4歳ぐらいのときに、三つ上の姉と木製のケースに入れてあるローストチキンの身を取った後の骨に着いている身をつまんでいるところです。今も塩味とチキンの味が舌に残っています。ぼんじりが美味しくて、姉と取り合いになったことも。

記憶ってすごいなと思って、書いてみようと思いました。

私の育った家は店と一緒で、パリ万国博覧会で日本館や東急文化会館を作った坂倉準三先生(日本建築家協会会長)に、戦後すぐに建てていただきました。あの狭いところと云っても、父がいつも80坪4号5勺と云っていましたが、本当はもっと広く、店の裏を初代日本銀行総裁、吉原重俊様(1882年10月6日~1887年12月19日)にお譲りしていました。吉原様の日記の写しを甥御さん(前に書きました。昨年104歳にて、お亡くなりになりました。)よりいただきましたが、父が写しをなくしてしまい、分かりません。

話が飛びましたが、店の裏には庭があり、ブドウ畑の付いた砂場、ブランコがあったのは覚えているのですが、遊んだ記憶がないのです。前にも書いた、乃木神社の砂場の方はよく覚えています。

調理場に入る表に面したところに、車が一台入るぐらいのアプローチがあり、その入り口に小さな金魚を飼っている池があり、真冬には凍っていました。ご想像の通り、乗れると思い、足を突っ込みました。これはその場面よりも、怒られたと云う記憶の方が強く、それ以前にも怒られていたのでしょうが、私の中では、初めて怒られた記憶として残っています。小学校1年のときでした。

私の家は、新竜土町12番地でしたので、竜土町があるわけです。私たち、悪ガキどもは、下町と云っておりました。江戸時代の古地図を見ると、竜圡町と龍圡軒と同じ「、」が入っているのです。町の表記でその時代、時代によって変わっていったようです。この下町(たしかに坂の下にあるので)に竜圡の天祖神社があり、私たち3~4年生の格好の遊び場で、神社の狛犬に跨がっていました。バチ当たりです。今も散歩のときに神社の前を通るのですが、良くもこんな狭いところで、と思いますが、でも子供たちには十分広く、お祭りもここで行っていました。

祭りと云えば乃木神社の祭りで、竜圡の祭りにも来ていた針という的屋さんがいつも同じ角にいて刺繍の枠に黒い布をかけて、上から針を刺し、布の裏には白い布に点がついていて、5枚、10枚、50枚、100枚とポイントがあり、その数だけソースせんべいがもらえるのです。子供心をくすぐる商売でした。ハズレは確か、3枚でした。この人は全国各地を回っていたので、ご存じの方も多いと思います。

また強烈に印象に残っているのが、乃木神社で夜行われる剣舞です。神秘的で、美しさの初めての記憶です。3~4年生のときです。あ、そうそう、初めて女の子を意識したのが、たぶん1~2年生のときに近所の2つ上の女の子と夫婦気取りで手をつないでいる映像が残っております。それもどういうわけか、表通りのお豆腐屋さんの前なのです。

皆さん、東京タワーの真下にプールがあったのをご存じですか?

5年生の夏から3年間、毎年、毎日行っておりました。マソニックというフリーメーソンのプールです。近所の幼馴染みのお母さんの紹介でゲストとして入れていただきました。会費が、1シーズン昭和38年のお金で3000円、子供1日60円でした。今だといくらなのか、高いのか安いのか。大変楽しい記憶のNo1です。

このプールはさすがフリーメーソンで、50mのオリンピックプールでした。1.5m、5m、10mの飛び込み台があり、深さ5m。浅いところで1.5mでした。子供用のプールもありました。初めて外国の友人ができた場所でした。言葉が分からなくても、子供は遊びの天才です。楽しく遊んでいました。毎日毎日が楽しい記憶です。

今これを書いて分かったのですが、15歳以上の男子がいないのです。女の子はいるのに、たぶん遊びが変わったり、学校のクラブ活動だったり、友人が違ってくる年齢なのかもしれません。私もそうでした。卓球に変わりました。

次は、15歳の秋でした。暁星中学の3年生からフランスの学校リッセに入った9月です。2~3日前から学校の上にある寮に、日本語を使わないようにと、入っていました。学校が始まり、初日、校庭に並んでいるときに、父が隠れて見ていたのを覚えています。日本人がいるのに日本語を話さずに、ある意味、本当に別世界に入ったような、不安ではないのです。聴くもの、聞こえるもの、また、見るもの、見えるもの、初めてと云うよりも理解を超えているのです。ただそのままを受け入れる。流れに任す。激流のなかにいる。任せるしかない感覚でした。

今思うと、父は偉大だと気付きます。このときの経験が3年後に生きるのです。そう、フランスに渡るときには、怖いとか、臆するところがなかったのです。でも出発時の写真を見ると、明らかに不安顔です。顔って、正直ですね。

そしてもう一つ。本気で勉強したのも記憶に残っております。

フランス人は、フランス語を大事にする国民です。毎日、国語の授業(当たり前ですがフランス語です)があり、ここにも素敵な先生がおられました。ムッシュ・ベル?ベルジュ?お名前が・・・・。お顔と三つ揃を着られたお姿が目に浮かびます。国語の先生で教科書を読まれるときにまるで朗読劇を聴いているようで、分からない単語が入ってもなんとなく分かるときがありました。

作文では具体的な課題が出され、例えば、同じページに同じ動詞を使わずに文章を作りなさい、などです。また毎週Dicter(ディクテーション)、先生が読み上げた文章を書き取り、そのなかから幾つかの単語を取り上げて、それが文章中に何を意味するのかと、文法上の何であるかを解く課題でした。

2年後の後半に、20点満点で初めて0点以上の1.5点を取れたときに、クラスメイトからの拍手が大変嬉しかったのを、今でも覚えています。

16歳、初恋。初めて女性を好きになりました。前にも書いた、ベトナム航空日本支社長の娘ミッシェルでした。私が彼女にお熱なのは、学校じゅうに知れ渡っていました。しかし、ミッシェルは私のことを弟としか見てくれませんでした。失恋。でも仲の良さは変わらず、ミシェルが結婚しても大変仲良(相変わらず弟で)く、色々と相談に乗って上げていました。この話には落ちがあるのです。ミッシェルにはジャンという妹がおり、そのジャンは私にお熱だったのはよく分かっていましたが、私の目はミッシェルしか見えなかったのです。恋は盲目。

3年目にフランスから帰ったときに、コロンバンの娘、私の姉貴分の優子から「利男、バカね。ジャンがものすごく綺麗になって帰ってきたのよ」と。

恋は料理のようにはいきません!!

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