《20年ほど前、1級建築士で活躍されている方から「100年保つものを設計するのは可能なのだが、建築技術、素材などの進歩や社会全体の変化への適応などを考えると、5~60年ごとに立て直すことを前提として建築することは合理的な考え方だ」と聞きました。

最近は、気象は50年に一度、100年に一度という気象がしょっちゅう出てくるようになりましたし、地震では1000年に一度になってきたのですから、建築基準の考え方はどうなったことやら。

今回のオリンピックで国立競技場建設のドキュメンタリー番組があり、そのなかで、素晴らしい建物をそのまま残し、現在の技術を生かして耐震強度を上げるのだという話しがありました。

後世の者にそう言わせるだけの価値ある建築物が、旧いけれども新橋、新市庁舎として、語り継がれていくのでしょう。(A.Y)》

新橋、新橋、なんと良い響き、しんばし、新しい橋です。でも“汽笛一声新橋の~”の新橋ではなく、パリの新橋Pont newfポンヌフです。

前にも書きましたが、しんばしと云っておきながら、セーヌ川に架かる橋で一番古いのです。それと同じような風景を昨日見ました。それは、旧ドイツの音楽の町、ライプツィヒのトラムでの旅という番組のなかで見せてもらいました。それはライプツィヒの新市庁舎でした。

トラム、路面電車で始発駅から終着駅までの全行程を案内していただける番組で、名所巡りと違い、住宅地や工場、公園などが出てきて、ナレーションや音楽もなく、ときどき乗客にインタビューをして町の様子を話してもらっています。そして名所、旧跡がテロップで表されます。このテロップに新市庁舎が出てきたのです。そこには「新市庁舎、1905年建造」とだけ出ていました。

それを見た家内が「1905年に新市庁舎って凄くない?1905年よ」と云って、私を見ました。そこで私が上記の「パリの新橋だって同じだぜ。しんばしなんて云っても一番古いんだから」。

「でも凄いわ。だて、まだ使っているんでしょ」

「たぶん。知らないけど、使っているんじゃないかな。ヨーロッパだから、というか、日本は何でも壊しちゃうから。古い物はあるんだけど利用するのではなく、大事にお宝にしちゃうから」

「そうね。国立だって壊すのは早かったから」

「そうそう。あれは早かった。確かに」

「お金を賭けずにコンパクトになんて云って、オリンピックなんて、いんちきだから」

「そうだよ。あの国立だってまだ十分使えるのに。イタリアなんか、紀元前の劇場で、世界的な演劇をやっているんだからもったいない。そう云えば、しばらく前に国連だか、ユネスコだかが、アフリカへの援助で、日本のもったいない精神がはやったときがあったっけ。日本発なのに、それを云っていた日本がそれの真逆で進むとは」。

このような会話はよく家内としております。

前にも書きましたが、うちは何でも長いのです。別に特別なことをしているわけではなく、ただそれぞれに愛着があるだけの話で、そしてそれぞれの目的に十分にその機能を満たしていれば良いわけです。不思議なことに、私は家内の物に、家内は私の物にけちを付けるのです。私は家内の20歳代の洋服に「どうやって着るんだ。第一、入らないだろ。幅を出すって云ったって、生地が足りないだろう」と云うと、「形が好きなの。だから型紙を採ろうと思って残してあるの。型紙にすると場所を取るから、そのままにしてあるじゃないの」と反撃してきます。

家内は、あたしが15歳のときに買った厚手の半袖トレーナーに文句を付けます。「もう、いい加減に棄てたら。襟も擦り切れているし、脱ぐときに同じところばかり引っ張るから、背中のタグなんか何回縫ってあげたと思っているの。処分しなさい」で、私は黙ってしまいます。そうでないと、他に波及するから。

自宅は彼女が実効支配しており、店は私で、我が家はバランスが取れているのです。

これを書いていると家内が口を出し、「あの17歳のときに買った靴の話も書いておいて」と。それは、彼女が修学旅行のお金をちょろまかして買った初の舶来品、イタリア製の靴。今でも履けるように修理をしてあり、箱の中に。我が家では一番威張って鎮座しております。

私たちの目から見ると、現代の日本人は、お金を使うことに楽しみを覚え、それゆえに新しい物を欲しがっているようにしか映りません。国民性なのか、地域性なのか。3代目武勇がよく云っておりました。アメリカ人は壁紙を貼るのが好きで、イギリス人はペンキを塗るのが好き。日本人は釘を打つのが好きと。

確かにそのように思います。ただ現代の都会の人はマンション住まいが多く、釘を打たなくなっていますが、私たちが若い頃は、柱や梁に釘を打って物を掛ける光景をよく目にしました。

父が英国大使館に料理人として勤めていたときに、毎年のようにペンキを塗るので、ペンキが5~7mmぐらいの厚さになっていたと、云っておりました。これは憶測ですが、ローマ時代にローマはロンドンまで進出していたので、あの時代、コロナのような疫病がはやると死者の家の中を新たなフレスコ画で塗りつぶしていたと聞いたことがあります。その名残かな。どうも邪推なような気もしますが。

ただ心配なのは、こんなに壊して新たに作り替えて、この国の資源は大丈夫なのか?

前にテレビ番組で、著名な天文学者の先生が、東大生の前で講義をなさったときに、ある学生がこの疑問と同じことを聞いていました。そのときに先生が、この国は資源が196カ国中180番目ぐらい乏しく、色々と工夫して現在に至っております、とお話しなさっておりました。色々とリサイクルして還元してはいるのでしょうが、気になります。

先だって、テレビが見られなくなりました。購入してまだ4年ほどです。新しかったテレビは、その前のテレビと比べて、色々な付加価値がついていましたが、前に書いた、その目的に十分な機能を充たしていればの、“テレビが見える”がダメではどうしようもありません。今の設計技術でそのくらいで壊れるように作られているのかも知れませんが、やり過ぎは行けません。

私は料理人なので、料理で云えば、野菜のポタージュです。一番味が残るのがバターと少々の塩。そして一口で食べられる大きさの野菜をよく炒め、水を加えて煮た物。次は、これをミキサーか裏漉しに掛けて口当たりを良くした物。そして更に、高性能ミキサーに掛けると、味がしなくなります。それは野菜の分子が壊れて、味が飛んでいくという表現が良いと思います。別物になってしまうからです。 少しこの辺を考えて開発していただきたい。

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