領海侵犯の事案というと、すぐに二つの事件が思い出されます。
2001年に扇千景国交相が指揮して北朝鮮の不審船へ対処した「九州南西海域不審船事件」と、2010年に菅直人総理自らが対応した「尖閣沖中国漁船衝突事件」です。
この二つの事件を取り上げて、恐怖・安心の心理戦対処と危機管理上の成否について、ケーススタディをしてみたいと思います。

Ⅰ 2001年:九州南西海域不審船事件
1 概要
(1) 発生日時:2001年12月22日
(2) 場所:九州南西海域(奄美大島北方)
(3) 日本の排他的経済水域(EEZ)内を航行していた不審船を海上保安庁が発見。不審船は北朝鮮の工作船と推定されました。不審船は、通常の漁船にはない高速度で航行し、巡視船への機関銃掃射、擲弾発射などの攻撃を行って逃走、最終的に自爆沈没しました。沈没後の引き揚げ調査で、武装・工作機材が多数確認されました。
(4) 海上保安庁は、沿岸警備法に基づいて追跡を実施しました。
巡視船は「警告→威嚇射撃→正当防衛射お撃」という法的手続を忠実かつ適切に守りながら、約10時間にわたり追跡した結果、工作船は海保の射撃と自爆により沈没、乗員は全員死亡、あるいは行方不明となりました。

2 扇千景 国交相の政治判断と特徴
扇千景(国交相)は、以下の点で非常に明確な政治対応をとりました。
(1) 海上保安庁の即応行動を全面的に支持
国交相として迷いなく海保を擁護、現場の判断を尊重し、政治介入せず、政府の統一メッセージを素早く発信したため、現場は萎縮せず「法と任務」の執行、行使に集中できました。
(2) 映像の迅速な公開を強力に後押し
当時としては極めて異例の速さで追跡映像を国民に公開したことにより、国民の安心が高まるとともに海保への信頼が上昇しました。また情報公開により北朝鮮の工作活動の実態が可視化されたため、国際社会からの圧倒的な信認を得ることができました。
(3) 政府の意思を明確に示したことによる国民の結束
国会答弁・記者会見で一貫して「海保の行動は正当」「主権侵害には断固対処」という強いメッセージを発信したため、国内世論はほぼ全面的に政府を支持することとなりました。
3 小泉総理の危機管理
当時の総理は、小泉純一郎でした。扇千景国交相が的確な指揮を執ることができたのは、最高指揮官の極めて適切な危機管理判断の結果でした。
この事件は、海上保安庁の通常権限で完結するもので、小泉総理には個別の射撃・追跡等を指示する権限はありませんでした。法律に基づく明確な任務分担に基づいて、情報把握と政治的支援に徹し、指揮系統を乱さなかった結果、現場の迅速な対応への政治の明確な支持が生まれた模範的な事例となりました。
(1) 法的枠組み(指揮系統)
日本の平時の海上法執行は、「内閣:国土交通大臣→海上保安庁長官→現場指揮官」という指揮系統で行われ、総理は個別の法執行(射撃タイミング・追跡行動など)に直接指示を出さないのが原則です。
これは政治介入による現場混乱を避け、法執行機関の中立性・専門性を維持し、国際法・国内法上の正当性を確保するための合理的な手順で、状況判断に明確な段階を設けることで、不測事態へのエスカレーションした場合の対応の透明性を高めます。
(2) 法に基づいた運用「指示系統を乱さない」運用
この事件では、海保は 沿岸警備法に基づいた通常の法執行を行いました。
沿岸警備法での対応は行政警察権であり、総理の直接命令の対象ではありません。この段階で総理が行うべきことは、必要な情報と関係閣僚の報告を聞いて、「法に従って対応する」方針を確認し、海上警備行動発令の要否の検討(必要なら閣議決定)することです。
現場が銃撃を受けても、射撃するかどうかは法律に基づいて現場が判断する仕組みになっているので「指揮系統を乱さない」ことが正しい判断でした。
(3) 事件当時の小泉総理の対応
政府の対応は以下の通りでした。
ⅰ 海上警備行動は「発令されていない」
海上保安庁による通常権限で対処可能だと判断され、実際に適切に対処したため、自衛隊を動かす必要はなく、総理の直接命令(自衛隊行動命令)は不要と判断しました。
ⅱ 小泉総理は“現場尊重・法的手続の遵守”を評価
事件後、小泉総理は記者会見等で、海保の対応を高く評価して現場の正当防衛的措置を肯定し、総理として、「主権侵害行為に対する政府の断固たる姿勢」を表明しました。
政治は現場の行動を全面的に支持している、現場は法律に基づいて厳正に行動している、という「安心」の心理戦の情報を国民と国際社会に発信した点で非常に重要なことでした。
ⅲ 危機管理の模範例
この事件が日本の危機管理における模範例だとされる理由は次の通りです。
① 政治は方針を示し現場は法律に従い行動するという原則通り、政治の役割と現場の役割が明確に区分されていた。
② 扇千景国交相と小泉純一郎総理は、現場に対して「対処行動は間違っていない」という政治的信頼を明らかにした。
③ 法的正当性が揺るがなかったため、国際世論の支持を高めた。

4 心理戦からの評価
国民の「安心」を最大化し、国際世論を味方につけ、「恐怖(不安)」のつけ入る余地を局限したため、心理戦における「恐怖・安心のサイクル」が働くことを無効化することができた。
(1) 国民の安心と信頼
迅速な情報公開により、明確な法的根拠と政治判断の迷いのなさが示されたため、国民の政府と海上保安庁に対する信頼が向上した。国民には「国家が守っている」という信頼感と安心感を最大化し、海上保安庁の現場を委縮させず、士気を高めた。
(2) 国際社会には日本の正当性を理解させ、日本への信頼を強化
(3) 北朝鮮の事後の行動を抑制
日本は工作活動を見逃さない、海保は正当防衛射撃も辞さない、政治と現場が完全に一致して行動することが明らかになったことにより、北朝鮮は以後、日本近海での大規模な工作船行動を控えるようになった。
以上
ご参考:Youtubeで、次の映像が公開されています。
FNNプライムオンライン fnn.jp
実録北朝鮮工作船事件全容 2001.12. 22
artcm555

