《若い頃は、バリバリ運動しないと気が済まず、散歩なんて年寄り臭い・・・なんて思っていたのに、いつの間にか、散歩が好きになって生活の一部になってしまいました。

散歩を始めたきっかけは、六本木勤務時代、休日はランニングをしていたものの、平日の運動不足解消のため、通勤時間に歩き始めたこと。

朝夕、信濃町駅か、千駄ヶ谷駅か、代々木駅から1時間~1時間半程度、毎朝、毎夕。絵画館前、銀杏並木がお気に入りで、何を考えることもなくボーッとテクテク。ときどき、夜に代々木のプールで水泳。

運動不足解消が、だんだん気分転換に・・・。 今は一日中、一日中PCに向かうことが多くなってしまったので、気分転換と言うより、ストレス解消に散歩したいと思うようになって、散歩の効用を実感しています。(A.Y)》

今日は、令和3年1月12日(火)の3連休明けで、まだコロナの真っ最中です。

実は、両足の付根が痛いのです。

昨日、姪の長女、通称ココ9歳と彼女の叔母、久美。ちょっと待ってください。何か話しがこんがらかって、よく見えないようです。久美は家内の兄の長女で、ココの母親、由美は一番下の妹で。これも分かり難いが、とにかく私たち夫婦と久美、ココの4人で散歩に出かけました。

東京四谷の愛住町から靖国通りで防衛省の前を通り、市ヶ谷のお堀を渡って靖国神社へ。

靖国神社はココの七五三のお祝いで30分ものきちんとした祝詞を挙げていただいた話しで盛り上がり、しばらく休憩して写真を撮っておりました。ここは、私が暁星の卓球部時代のランニングコースの終着地点で、最後に腕立て伏せをしていたところです。

当時の暁星卓球部は運動部にありがちな根性主義はなく、ランニングと云ってもバスケット部の皇居1周ではなく、富士見坂を下って飯田橋を外堀の土手沿いに市ヶ谷、そして私たちが歩いてきた靖国通りを登って、靖国神社から学園へ、でした。

まあ云えば、軟弱だったのです。

前にも書きましたが、中学3年のときに学年トップから4番までが入部したことにより、一躍、学業優秀クラブへと変貌を遂げたのです。肝心の卓球の方はと云うと、これもまたかなり優秀で、千代田区代表で東京大会にも出ましたし、また学園とは別に国際卓球クラブなるものを作り、大会がある区にその都度、伝を使い所在地を移して大会荒らしをしていました。私もまったく関係のない渋谷区の賞状を持っております。

暁星のクラブ活動は、中高を同時に行っていたため、入部は中2からでした。その理由は、学園では勉学優先、それと18歳の高3と13歳の中1では体力に違いがありすぎる、でした。ごもっとも。私たちが中2の時代から、中学と高校は別メニューで同じ日に行い、中1も入部できるようになりました。

そんな靖国に大きな銅像が立っており、ココが「あれ誰?」と聞いてきたので、「大村益次郎だよ」と答えると、久美が「何をした人?」と聞いてきました。ギクッ。名前はすぐに出てきたのですが、たしか司馬遼太郎さんの小説に出てきたのを覚えているくらいで、しょうがないので「ここを建てた人じゃないかな」とお茶を濁して、難を避けました。

恥ずかしい。

台座の碑文を読むと、なんとラグーザの名前が書いてあり、銅像の設計者が大熊氏廣(おおくまひじろう)で、工部美術学校でイタリアのラグーザ氏に彫刻を学んだ人、と書いてありました。店にラグーザ氏の奥様、タマさんのバラの絵があります。

翌日、ネットで益次郎を調べると、何と凄い人、高杉晋作に代わって軍勢を指揮した人、そして靖国神社の前身、戊辰戦争で亡くなった人を祀る東京招魂社を創建、1879年に名前を靖国神社に変えたそうです。

懐かしいので我が母校に行ってみようと、靖国神社に隣接している学校があり、白百合だっけ、いや九段高校だっけ、とたわいもない話をしながら、暁星を受験する前に家庭教師の伊東先生と「敵地偵察」と意気込んで入った学校が隣の和洋女子学園だったと話し、大笑い。九段高校の前に来て、何か覚えのない新しい大きな建物。

たしかここは私たち卓球部も使っていた体育館に隣接されていて、いつもバスケット部のボールが床を打つ音が響いて困ると苦情を訴えておられた普通の民家(30年ほど前に食事に来られて、この話になった)だったはず。“そうだよ。お前がおかしいの。53年前の話しが今の東京にそのまま残っていると思っているお前がおかしいの!!”と思いました。

真新しくなった暁星学園を見て、その真向かい側を見ると。“あ!ここにあったのか”と見覚えのある風景。

4日前にテレビで見たスペイン風の邸宅(九段下の山口萬吉邸)。テレビでは、麹町の邸宅と云っていたので、今日の散歩も、あわよくば見つかるかなと思い、こちらの方に来たのです。それが暁星の目の前にあった。思い出しました。

この光景。中1のとき、教室の窓から毎日見えていた光景だったのです。やはりテレビの画面で見るのと実際は違う物なのですね。

別のことを思い出しました。

私たち中1C組(フランス語の学校なので、シーではなく、セーです。Aアー、Bベー、Cセー、Dデェーです)の教室は、学園の一番端の三階で隣接している和洋女子の黄色い声が届くところにありました。(ちゃんと、休み時間は、ぶつからないようになっていました)。クラスメイトの内山が窓から身を乗り出し、和洋の方に向かって「和洋のみなさ~ん」と声をかけた瞬間、下から田川校長の声「内山、君は何をやってんだ」が聞こえました。

クラス中、大爆笑。毎年、同じようなことがあるのか、私たちの教室の前が学園の正面玄関だったのでたまたま田川校長が外から帰ってきたときなのか。

そんな話をしながら暁星の敷地内にあったシャミナード学園(神父様の学校)跡に。

このシャミナード学園の跡地に、私が通っていたリッセが出来、リッセの生徒が増えたので北区の滝野川に移転(二度目の移転で、この前は外堀沿いの日仏学院から暁星へ)。その跡にまた、シャミナード学園が戻ってきました。

その後、富士見坂(現在の早稲田通り)を下り、神楽坂を散策。お昼を食べて飯田橋に戻り、外堀通りで帰途へ。

市ヶ谷の手前で久美から「この辺一帯が、大日本印刷の土地、大きいのよ」と云われて、たしかに広大な土地に大日本印刷の建物がいっぱい。

びっくりして、本日の歩数約1万3千歩。足の付根が痛い。

https://www.saibouken.or.jp/archives/4265

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