《ちょうど尼崎の家内の実家にいて、実に蒸し暑い日だった。道のない険しい山中で、詳しい場所も不明。場所を特定するために、空から捜索活動。陸上自衛隊が救援に向かったと聞いたとき、遭難者のことはまったくイメージできず、自分の姿を救援活動に向かった陸上自衛隊員に重ねていたことを思い出す。

行き先も道筋も不明、何をするのかも不明。救助すると言っても、食糧も水も必要だし、背中で運べる救急医療用品などはしれているし、何を持って行くのか。自分だったら何を判断し、どう命じ、何を処置しなくてはいけないかなどと、ニュースを見ながら、次から次への浮かんでくる“できること。やるべきこと”に、そちらのほうが気になっていた。 

派遣された指揮官、隊員は、大変だとか苦労だとか感じるいとまもなく瞬間、瞬間、目の前のことに決断の連続だったのだろうと思う。 遭難者や遺族の方々への想いに気が向いたのは、少し間を置いて、墜落現場の状況が伝えられてからだったが、これは職業病だったのかも知れない。合掌。》

8月12日、この日は私にとって、大変大事な日です。今からもう35年もたったのかと思います。そう、日本航空123便でハウス食品の社長様が亡くなられた日でした。1985年の夏、いつものように大変暑い日でした。窓を開け、網戸越しの隣が、前に書いたお寺の墓地で、蝉がうるさく鳴いていたのを覚えております。

この頃は、フランスから帰って5年目で、まだクーラーを使わずに生活しておりました。地中海の店、レサントンのオーナーシェフ、ジェラルドゥ氏の影響でした。前にも書きましたが、第二次世界大戦のとき、アマチュアボクシング、ヨーロッパチャンピオンだったジェラルドゥ氏は、少佐待遇でイギリス軍のコマンド部隊の教官をしていらっしゃいました。人体についても、大変精通しておられ、2年目の夏に初めて注意されました。

最初で最後でしたが、それはオーダーが入った肉がなかなか切り出されてこないので、自分で冷蔵庫に入ろうとしたときでした。そのとき、たまたま3階のデザートを作っているところから2階の調理場に降りてきたときだったのです。「Toshio入るな!冷蔵庫に。どうした」と。私は、忙しいのに、すぐに肉が出てこないので「自分で・・・」と云うと、「Toshioお客様が2~3分料理が遅れて待つことよりも、君の身体の方が大事だから、入るな」と云って、ご自分で中に入り、切り出してくれました。

夜、仕事が終わって、ジェラルドゥ氏から呼ばれ、「Toshioさっき云ったこと、分かったか?」。分からなかったので正直に「いいえ」と答えると、「今、君は若いから分からないけれども、50~60歳になったときにリュウマチに罹る確率が高くなる。汗をかくのは体温を下げるためだというのは、分かるだろ」「はい」。「その状態で冷蔵庫に入ったならばどうなる」「汗が止まります」。「そうだろ。急に冷やすから止まるのではなく、急に寒くなったから皮膚が危機を感じ取り、体温を下げないように汗腺を引き締めるんだよ」「ええ」。「汗をかいて体温を下げようとしているのを止めてしまうと、体温を逃がさずに体内に残してしまうだろ。今は大丈夫でも、この蓄積が後々出てくるんだから気をつけなさい。分かったかToshio」「はい」。「そのために、汗をかかない涼しいところにGarde mange’ギャルドゥ・マンジュ(直訳すると、食の保守ですが、「食物の保在所のほうが正しいかもしれません)があるのだから、お客様が少し待つぐらい何でもない。分かったね」でした。

現在では、フランスでもクーラーを使うところが増えましたが、当時は有名ホテルでもなく、何年か前にはパリでも死者が何人も出ました。それでクーラーなしで過ごしておりましたが、現在では、特に今年は、クーラーのなかにどっぷりです。

で、最初の話に戻りますが、ハウス食品の社長様のアドバイスで日本に残ることになりました。それは日本に帰ってきたのは良いが、フランスに渡ったときよりも、帰国した日本の方が不安でした。フランスでは、先ほど書いたジェラルドゥ氏のように親身になってくれる方々ばかりで、日本には、そういう方は洋菓子のコロンバンの専務、優子の母、我等のおっかさんしかおりませんでした。日本の社会生活に慣れずに困り、フランスに帰ろうと思いました。そのときに、相談に乗って頂いたのが、浦上様だったのです。

そのときの浦上郁夫様「交響録」より。

「君の十年にわたるフランスでの修行は大変なことであり、また君をフランスに十年間修行に出したご両親も大変だったと思う。しかし君は、龍圡軒の四代目として本陣である日本の店を堅持して、しかるべき時期にフランスに龍圡軒の店を持つべきであり、また君は若いので時間は十分にある。十年間の修行の成果を知るべきである。そして実業界に出るには、茶道の心を知ることが大切で、それは自分の心を冷静にしていると、先様の心をとらえることができる。一番経営者として大切なことである。」のお言葉でした。

当日の夜、テレビで事故を見ているとき、カタカナのテロップで乗客名、ウラガミが出たときに、まさかと不安がよぎりました。このときはそれが浦上社長だとまだ分かっていなかったのです。ただ何回か、ご自宅に遊びにお伺いしたときに、羽田発大阪行き123便は、よくお使いになるとお話になったのを覚えていました。 そして、翌日、本当にどうしていいのか分かりませんでした。

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