2 感謝のつながり

■ありがとう

ありがとうの語源、「有り難し(ありがたし)」は、「有る(ある)こと」が「難い(かたい)」という意味で、本来は「滅多にない」や「珍しくて貴重だ」という意味でした。

形容詞「有り難し(ありがたし)」の連用形「有り難く(ありがたく)」がウ音便化して、「ありがとう」となりました。

仏教的には、「よくぞ人間に生まれてきたものだ」と生まれ難い人間に生まれてきたことに喜び、感謝する気持ちを表していると言われます。

中世になり、仏の慈悲など貴重で得難いものを自分は得ているというところから、宗教的な感謝の気持ちをいうようになり、近世以降、感謝の意味として一般にも広がりました。

それでは、「ありがとう」の反対語は?というと、「当たり前」になります。

生まれてきたことに感謝する。生きていることに感謝する。五体満足でいることに感謝する。健康であることに感謝する。食事ができることに感謝する。・・・・そう考えてみると、当たり前だと思っていたすべてのことが、滅多にないことで、何者かのお陰様で生かされていて、有り難いことなのだと気づかされます。

『枕草子』の「ありがたきもの」では、「この世にあるのが難しい」という意味、つまり、「過ごしにくい」といった意味でも用いられています。 

「ありがとう」を「在我問う」と、当て字で書いてきた友人がありましたが、感謝の気持ちをどう表すかは、その人自身の「在り方」を問うものだと言えるでしょう。

■ごちそうさまでした

ごちそうさま…「馳走」は、もとは走りまわること。食事の用意に走りまわることから、食事のもてなしの意味になり、歓待の意味も飲食物に限られることになりました。「いただきます」と合わせて、食材を獲りに走り回ってくれた人、食事の用意に走り回ってくれた人に感謝の意を、取り上げられるようになりました。

「馳」と「走」、どちらの漢字にも「走る」という意味があります。

食事の終わりに言う「ご馳走様」という言葉と「走る」という意味には、一体どのような関係があるのでしょうか。

昔は今のように簡単に食材を買いに行くことができず、食事を作るのに遠くまで走って食材を調達しなくてはなりませんでした。走り回って食事を用意してくれることに対して、丁寧な気持ちを表す接頭語である「御」、敬う気持ちを表現する「様」をつけて、「ご馳走様」と言うようになったのです。

昔ほど食材の調達が困難でなくなった現在であっても、買い出しに行くのに走る人がいて、また店に食材を並べに走る人がいて、料理するのに走る人がいる。一度の食事のために奔走してくれるすべての人への感謝の気持ちを表した言葉だと言えます。

3 自然・生命とのつながり~いただきます~

民俗学などでは、本来的に、神人共食の考え方が根底にあり、「いただきます」は神への感謝だとする説が唱えられています。

物を頭に載せることを頂くと言います。食べ物を頂くとは、改まった儀式の日に、神と人とが同じ物を食べるとき、食べ物を頭とか額に押しいただいたことから、飲食物を与えてくれる人、または神に対しての感謝の念を表したものだと言われています。

「いただきます」という言葉が謙譲語であるため、食事の提供者や農業・労働・調理にかかわった人への感謝、家族に向けた感謝の心があるとも指摘されています。

加えて、命を支える食物や、その食べ物を生み出す天地の恵み、それらを含めた関わったもの一切によって生かされていることへの感謝も、取り上げられます。

さまざまな感謝の対象のなかでも、食事になることで犠牲になった食材の命に対する感謝を取り上げる文献が多くみられ、この「犠牲になった食物への感謝」、(食材に対して)「あなたの命を私の命に代えさせていただきます」ということが「いただきます」の語源であるとする説があります。

古事記には、このような神話が残されています。

『高天原を追放された須佐之男命が、空腹を覚えて大気都比売神に食物を求めると、大気都比売神は、おもむろにさまざまな食物を須佐之男命に与えました。

それを不審に思った須佐之男命が、食事の用意をする大気都比売神の様子を覗いてみると、大気都比売神は鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理していたのです。そんな汚い物を食べさせていたのかと怒った須佐之男命は、大気都比売神を斬り殺してしまいます。すると、切り殺された大気都比売神の頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻からは大豆が生まれました』。

食べ物を収穫するということはその生命を奪うことになるのですが、この神話は、その食べ物が他者の生きる糧(エネルギー)になり、収穫した種子から、また新たな生命が誕生するという生命(エネルギー)の循環を表現しているのだとも言われています。

神道では、食前に「たなつもの百の木草もあまてらす日の大神の恵み得てこそ、いただきます」、食後には「朝宵に物食う毎に豊受の神の恵みを思え世の人、ごちそうさまでした」と感謝の言葉を唱えるそうです。

人間以外のあらゆる生物からの「生命をいただく」という考え方は、感謝の気持ちだけではなく、自然界との繋がりや生命の循環を示唆する、大変、奥深いものがあります。私たちが食することのできるものは生きていたもの以外にはなく、その生命は大自然のエネルギーを受けて育てられたものです。

「いただきます」という言葉は、生命の循環と、生命を育む自然界と人とのつながりを意識したもので、すべての生命とその生命を育んできた大自然への感謝を表している言葉だといってよいでしょう。

 日本では天平・白鳳時代から現代まで、たくさんの仏像が彫られていますが、日本の神様の像は彫られていません。

日本の神様は、富士山をはじめとする山々であり、大木であり、岩であり、瀧であり、ひときわ目立つ、長い年月を感じさせる自然が神様の依代となっています。この自然とのつながりの意識が日本人の心の根底を流れているような気がします。

https://www.saibouken.or.jp/archives/3278