25年ほど前、日本が戦略防衛構想に参加しようかという頃、米国(国務省と国防省)が日本に、TMD構想の説明に来たことがある。

まだ防衛庁の案件ではなかった。

日米の外交関係の話だから、国務省が主体で、国防省は補佐役であった。

まず外務省で説明。

次いで、民間での協力関係が先行していたので、通商産業省においてBMD開発に関係する主要企業を集めて説明会を開き、最後に防衛庁にご挨拶に訪れるというものだった。

防衛庁は、国防省からの来訪者(事務レベル)を事実として公表しただけであった。

通商産業省での説明会は、非公表のものだったが、記者には公開された。

私がこの話を記者から聞いた時、「何で、安全保障問題なのに防衛庁が最後なんだ?!」と思ったが、考えて見れば防衛庁の所掌する案件にはなっていなかったから当たり前のことだった。

あとから日米間の交渉経緯を調べてみれば、防衛庁に先んじて産業界に情報提供するのは筋が通っていた。

この通産省で開かれたTMD構想の説明会に出席して帰って来た記者が、藪から棒に「カウンター・アティラリーって何?」と、聞いてきた。

「counter artillery ? 戦術用語だと対砲兵戦のことだと思うけど、どうしてそんなことを聞くの?」

「いやぁ、米国国防省の軍人が言ったから、吉田さんなら分かるかなと思って・・・」

「どこで話が出たの?」

「いやあ、カクカクシカジカで・・・」と話したのが、TMD構想説明会について。

「どんな状況の中で話したの? 正しいかどうかハッキリ分からないから教えてよ?」

「本当は言っちゃいけないんだけど・・・・内緒ですよ」

「いいよ、いいよ。気にしなくって。よくある話だから。」

「・・・それで説明を終わって「質問は?」と聞かれたので、「ミサイル防衛が有効だというのは分かったが、それができるまではどうするんだ」って質問したら、当たり前だろうという雰囲気で怒ったように一言「counter artillery」と答えられたので、それ以上は聞けなかった」

・・・ということだった。

「それは、臭いものは元から絶たなきゃ駄目だ、という意味です」

「???」

「ミサイルの発射機を直接潰さないといけないと言ったんですよ。実現するかしないか分からないし、TMDは、

実現しても信頼性や確実性は分からないから、米軍は一番確実な手段を考えているのでしょう。」

「そういうことか・・・」

「それに、北朝鮮のミサイルは米国の脅威ではないから、「お前達の、自分の問題だぞ!!」って、怒ったんじゃないの?! 今度、そういう記事を出してみたら?」

「外国を攻撃するっていうので、大変な問題になりますよ」

「敵地攻撃能力を持てるということは、国会で答弁しているからいいじゃない。」

「でも無理だろうなあ・・・」

という会話。

当時を振り返ると、次のような経緯になる。

1980年、レーガン大統領がSDI(スターウォーズ)構想を提唱した。

1986年、日本は、米国に戦略防衛構想(SDI)への参加方針を通告して、国内の産業界をメンバーに含んだ官民調査団を派遣(3月)し、三菱重工の提案(プライム)によって「日本のミサイル防衛構想研究(J-TMDAS)」からスタートした。

【今見ると、不自然に思う人がいるかも知れないが、海のものとも山のものとも分からないSDI(スターウォーズ)構想の技術的可能性から検討を開始しようとしたが、技術面からの分析評価能力を持つのが三菱重工をはじめとする産業界にしかなかったから、皆が納得する至当な判断であった。

国際軍事情勢、特に核戦略が研究されていなかったことと、軍事と科学技術研究が分離していることの二つが、致命的な問題であった。ここが欠落していては、情報能力の主要機能が欠落してしまう。情報分析能力がないに等しい。

多分、今でも同じような判断になるのではないか。

安全保障における我が国の政治的な意志決定プロセスや意志決定システムを考える時の参考になる事例だと思う。】

1987年には、日米間で「SDI研究への日本の参加に関わる合意」がなされ、民間企業を中心に本格的なBMD研究が開始された。

「西太平洋ミサイル防衛構想研究(WESTPAC)」として、米政府と日本企業が直接契約を結んで、日米政府間では、別途、非公式な意見交換が行われた。

【SDI構想は、米国が自分で撒いた種ではあったが、相互確証破壊という核の恐怖に基づく(論理性のない?奇論)に支配されていた米ソの戦略的関係を、非核手段によってコントロールできる関係にふり戻す可能性を秘めていたのだが、それを安全保障研究(防衛庁)抜きにして、産業界主導で進められていくことになった。

このような日本政府の姿勢に対して、米国は、日本が世界の戦略的安定化に対する貢献を考えるよりも、スターウォーズ構想の研究進展に伴う技術革新による最先端技術の取得にだけ関心を持っているのではないかと、日本の「タダ乗り」を警戒していた。】

1990年に、冷戦が終結して、BMD構想も一息ついた感があったが、1993年5月29日、北朝鮮がノドンを発射する。能登半島沖北方350km付近に着弾したと考えられていたが、のちに日本を飛び越えて太平洋へ落下したことが分かった。

そして、北朝鮮がノドンの実戦配備を開始すると、日米のBMD研究連携が日本の防衛問題として認識され、日本での議論が急に真剣味を帯びてくる。

政府にとって、北朝鮮から日本に対して使用される戦術兵器レベルの弾道弾に対して効果があるかないかが問題ではなく、BMD構想を産業界の研究レベルから、防衛庁の案件に転換することが政治的な焦点だったように思われた。

この当時、まだ「日米同盟」の概念も言葉も定着しておらず、冷戦崩壊後、日米関係のよりどころをどこに置くかが問題になっていた時期でもあり、とにかく日米関係を緊密にすることが重要課題であった。

政府がこのプロセスを非常に慎重に進めたことは、次の一連の流れとそのプロジェクト名から理解できる。

1993年9月、中西防衛庁長官とアスピン米国防長官が、「TMDシステム構築への共同取り組み検討のための事務レベルの作業グループ」設立で合意する。

このあたりの極めてまどろっこしい名が国内政治向きの表現で、実に味わい深い(?)。あくまで「事務レベル」なのである。

1993年12月、防衛庁長官と米国防長官との間で、米国のTMDプログラムの概要等について事務レベルで情報交換を実施するため、日米安全保障高級事務レベル協議(SCC)の下に、「TMDに関する日米ワーキング・グループ(TMD-WG))設置が合意された。

1994年5月になって「WESTPAC報告書」で提言されたのが次の二つで、その後の防衛力整備に反映された。

①三層のシステムからなる防衛通信ネットワーク構築の必要性

(衛星システム、統合戦術情報通信システム、陸上通信システム)

②THAADを上層防衛、パトリオットを下層防衛とする重層防衛システム構築の必要性

 1995年4月 防衛庁内部に米国のBMDDと太平洋軍のカウンターパートとして「弾道ミサイル防衛研究室」を設置することが決まり、やっと防衛庁の手に渡るが、検討課題として与えられたのは、「脅威見積や日本が米国とTMD開発と協力すべきかどうかを決定するための研究」というテーマであった。

最後まで、我が国の安全保障からの必要性や防衛システム(指揮統制)の在り方や部隊の運用についての研究が取り上げられなかったが、現在までその影を引きずっていると思う。

国民が脅威に晒されている時に、対処する手段を持たなくて良い訳がない。

敵地攻撃能力が問題であるかのように語るのではなく、危険が差し迫っている時にどうやって国民の安全を確保するのかを真正面から論じてほしいものである。

1994~1995年の間、社会党の村山政権だったが、皮肉なことに、この間の防衛問題は、驚くべき円滑さで進んでいった。2年間の安全保障政策は非常に分かりやすかった。

野党最大の反対勢力であった社会党が政権を担当し、総理に担ぎ上げられた村山総理が、極めてバランスのとれた常識的な判断力を持つ人格者であったことが大きかった。

国会(野党)対策を優先した政治運営や真っ正面から国の将来を論じることを避ける姿勢が残した傷跡は大きい。

国民に重要な問題の論点を示して判断材料を与えることをせず、優柔不断な姿勢をとることによって議論をしたかのように見せて国会内での落としどころを探り、政権運営には国民に「信を問う」姿勢はなかった。

そうした姿勢が不信感となり、2009年の民主党政権誕生に繋がっていったように思う。

リーダーシップは意志であり、意志は論理性と明確さで表される。

論点を明らかにして判断の根拠と意志を明確に示す姿勢が、リーダー及びリーダーを支える立場にある人たちには求められる。それが信頼を生む。