1 桜島

約3万年前に誕生した姶良カルデラの南縁付近にあり、桜島火山は、約26000年前から活動している日本では比較的新しい火山。

有史以来30回以上の噴火が記録に残されており、大正3年1月12日の大噴火で元々島だった桜島が、大隅半島と陸続きになった。

2 前兆現象

  • 1909年 日向灘地震
  • 1911年 喜界島地震
  • 1913年 宮崎、鹿児島県内で群発地震
  • 1913年11月 霧島山が噴火
  • 1913年7月、桜島島内で、二酸化炭素によるものと推定されるガス中毒事故
  • 1913年12月 井戸水の渇水、水位低下。桜島の地盤が数十cm?隆起
  • 1914年1月9日1600頃から、桜島島内の東部、北部で有感地震
  • 同  1月10日夕から、桜島全島で体に感じる有感地震
  • 1月11日、地震活動の活発化が顕著
  • 同    0900頃、桜島山頂部からの崩落
  • 同    昼頃から白煙が確認
  • 1月12日、地震活動は更に活発化
  • 同    1000頃、噴火開始
  • 同    1829 南西沖を震源 マグニチュード7.1の大地震

3 噴火の特徴

1000頃に噴火が始まり約1ヶ月、爆発を繰り返した。死者、行方不明者58名。うち、避難時の溺死が40名で、今で言う「要支援者」が多かった。

溶岩流は、桜島の西側及び南東側の海上に伸び、最大距離400m、最深部100mの海峡を埋め、桜島と大隅半島とが陸続きになった。

4 避難等

桜島の島民は、10日以降、逐次に避難を開始した。安永噴火の言い伝えも住民たちの避難行動のきっかけとなった。12日0800頃、測候所は白煙を見て噴火の可能性蟻と判断。住民は、朝の異常な湧水で避難を加速させた。

当時の島民は半農半漁の生活で、漁船を持っていたこともあり避難は何とかできた。

噴火の規模が大規模になるにつれて“津波や毒ガス”などの流言飛語が飛び交うようになり、桜島を取り巻くすべての地域の人々は不安感を抱くようになっていた。そのような状況下で桜島地震が発生したためパニック状態が発生し、鹿児島市内の人々は我先へと避難を始め、鹿児島市内は一時人影もまばらな状態となった。

鹿児島市近郊の伊敷村に駐屯していた歩兵第45連隊はこの混乱を見て、照國神社に衛戍司令部を置き、鹿児島市内の火災防止及び治安維持にあたった。

5 集団移転

当初は避難先にあった寺院、学校、公的施設を間借りする形で避難生活をしていたが、まもなく罹災民収容所という仮設住宅が建設された。罹災民収容所は基本90日間の運営、食費の支援なども行ったが、その後は自力での生活再建が求められた。

1914年6月、被害対応の円滑化を図るため、内務大臣、大蔵大臣,文部大臣、管轄の地方自治に関する権限を鹿児島県知事に一時的に委譲した。その結果、県知事は権限的にも予算的にも比較的自由な裁量が認められた。

復興対策として大学、地質調査所、農事試験場などの研究者を動員して、農地復興などに取り組んだ。皇室から御下賜金が給付され、また義援金を集めて被災者に分配した。

鹿児島県は被災者たちの移住先を北海道、台湾、朝鮮まで範囲を広げ、移住先として有力と見なされた鹿児島県、宮崎県の候補地には県職員を派遣して調査を進めた。  

鹿児島県内の大隅半島に5か所、種子島に3か所の計8か所。宮崎県内の霧島山北方に2か所の他、朝鮮に指定移住先が設けられた。宅地、耕地は、家族構成と土地の状態を勘案して分配された。

指定移住先は国有地を無料で鹿児島県に譲渡し、県は被災者たちに無償で貸与して開墾を行い、一定年月を経過した後には無償譲渡するというシステムで運営された。「桜島大正噴火誌」によれば指定移住地への移住世帯は1001世帯、移住人員は6245名であり、うち桜島島民は883世帯、5617名であった。

また任意移住世帯は桜島全島で1130世帯に及び、鹿児島県内の他、九州各地や大阪や東京などへ移住した。噴火前の桜島島民の約3分の2が故郷を離れた。

開墾は自力で行っていくこととされたが、着のみ着のままで避難してきた避難者のために、移住地までの旅費、荷物の移送費、小屋掛け料が給付され、家具や農具の支給、耕作開始に必要な種や苗の支給、更に当面の間、食費が支給された。また県の農業技師を巡回させ、開墾による農業開始の技術指導を行った。このように被災者の自立のために相応の対策は行われたものの、実際には開墾は困難を極め、開墾地の多くは飲料水の確保も難しいなど生活は苦労の連続であり、また子どもたちの教育の場の提供も大きな課題となった。そして移住先ではこれまでの住民たちとの軋轢も表面化した。

人々は移住地で懸命に生活を続け、噴火後20年余りを経た1936年5月、ようやく開墾地の無償譲渡が実現した。

大正大噴火が沈静化すると、桜島島内でも噴火による影響が比較的少なかった地域の人々は続々と帰島した。指定移住者や任意移住者の中でも、溶岩流に埋もれずに復旧が可能であった世帯の人々の多くは桜島に戻った。