指揮官と幕僚との関係を現すエピソードです。

いつもニコニコしていて温厚で誰からも好かれている指揮官だという印象を持たれていたアイゼンハワーに仕え、周囲の皆から、最も信頼されていると見られていた参謀長のベデル・スミスが、後になって「アイゼンハワーは非常に厳しい指揮官で、俺は無能な人物を解雇しなければならない“首切り屋”をさせられていた。いつも汚れ役をやらされて、大変つらい思いをした」と泣いて告白したことがある、というのです。

これは、アイゼンハワーに限ったことではなく、指揮官が部下に信頼される存在であるためには、そのような役回りを演じなければならない部下が必要であり、指揮官と幕僚の関係とはそういうものなのです。

ちなみに、ベデル・スミスは、陸軍大将にまで上り詰め、戦後はソ連大使、CIA長官、アイゼンハワー大統領の下で国務次官などを歴任しています。それほど、信頼された人物でありました。

この話は、しばしば、リーダーの部下に対する厳しい姿勢を語るときに使われますが、私はベデル・スミスの涙の理由は違うところにあるのではないかと考えています。

参謀長と指揮官は、外から見る以上に一体的な存在で、参謀長は、部下を指導し組織をまとめて、指揮官を補佐するのが使命です。

参謀長と参謀とは、これもまた一体の存在です。

ベデル・スミスの涙は、部下を指導して指揮官の示した構想を実現させなくてはならないときに、指揮官の意図に沿うよう指導できず、自分が部下を辞めさせざるを得なかったことに対する、自分自身の不甲斐なさ、部下に対する指導能力不足の自責と慙愧の念であった、自分の心の内から流れ出た涙だったのだろうと、思うのです。

指揮官との人間関係で「つらい思いをした」ということで涙を流すようなナイーブな参謀長であったならば指揮官を補佐することはできませんし、後々まであれほどの信頼を獲得することはなかったでしょう。

幕僚(=参謀)は、常に指揮官の威徳を発揚するように行動することが求められ、(私は決してそんなことはない、と思うのですが)「幕僚には人格がない」と言う人がいるほどに、指揮官の影の存在(これは間違いありません。)になります。

指揮官を補佐する者がそのような存在に徹しなければ、組織は円滑に動きません。

「船頭多くして、船、山に登る」ということわざがあります。

このことわざを聞いた韓国の人が「日本人はすごいことわざを持っている」というので、「どうしてすごいんだ」と尋ねると、「優れたリーダーが何人も集まると、船を山にあげてしまうほどの働きをするというのは、如何にも日本人らしくてすごい発想だ」と、真顔で答えたことがありました。

そういう見方があったんだと、瞬間、目が点になってしまいましたが、いくら優秀な人が集まっても、「俺が」「俺が」という人ばかりでは、座礁するのが関の山で、決して目的地に着くことはありません。

職務に徹して支える。立場を弁えなければならないのは、世の常。

それを支えるのは、上司に対する忠誠心ではなく、職業に対する使命感だと思います。