鹿島神宮は、8世紀初めの「常陸風土記」に記載されている神宮で、その当時、神宮と称されていたのは、伊勢神宮と鹿島神宮と香取神宮の三神宮だけだったそうだ。

茨城県の鹿島神宮は、鹿島灘から日本本州で最も早い日の出を拝むとともに、海からの生命の再生を象徴する。合わせて神宮の奥には、大地を抑える要石が祀られている、まさに天と地の融合する神宮で、国産み神話では、武甕槌神が、大国主神に国譲りの談判を行ったことで知られているが、日の出と大地はその象徴なのかもしれない。

八百万の神々が知られるが地震や津波避けの神様は唯一「鹿島の神」だけだそうで、地中の鯰の頭を押さえつけているのが鹿島神宮で、尻尾を抑えているのが香取神宮。日本各地にある鹿島神社の総本社、要石神社の頂点にあって、それぞれの地で、震災軽減の霊験が伝えられているという。

和歌山県みなべ町にある鹿島神社には、安政南海地震の直後、鹿島の神社をたたえて詠まれた和歌が残されている。

《地震ゆれど 高波よせぬこの里は かしまの神の ませばなりけり》

一方、この安政南海地震で大きな津波被害を出した徳島では、鹿島の神と要石がこう詠まれている。

《ゆるぐのに なぜにおさえぬ 要石 かしまの神は 留守か寝たのか》

御幣の手前の地面に、まぁるく見えるのが、要石

安政2年10月2日に起きた安政江戸地震は、鹿島神宮の主神・武甕槌神(たけみかづちのかみ)が出雲に出かけるというので、布袋様に留守を任せていたところ、布袋様がちょっとぐらい良いだろうと、酒を飲んで酔っ払って眠りこんだその隙に、鯰が暴れたのだという言い伝えがある。 鹿島の神様は、本来、藤原(中臣)氏の氏神で、藤原氏とともに奈良へと進出し、さらに全国に広まっていったらしい。常陸国に残った中臣氏は、6つの姓に分かれて現在につながっているのだと、東(とう)権宮司様から伺った。

この鯰、地震を起こしてけしからん、というので町民やら武士やら農民やら、寄って集って懲らしめようとしている図絵が残っている。面白いことに、その脇で、復興需要で地震の恩恵を受けた大工やらが、鯰を応援しているのである。

 

別の図絵では、被害を被った者たちと復興景気の恩恵を受けた者たちが、鯰の首に綱をかけて、互いに綱引きをしている場面が描かれているユーモラスなものがある。

地震を破壊としてだけではなく、再生と発展の機会として捉える姿をともに描いているバランス感覚が、江戸時代の人々の逞しさを表している。

始まりと再生、天と地を司る鹿島神宮の神様に相応しいような気がする。