今、私たちは、明治5年以来、太陽暦を使っていますが、これは太陽の動きを基準にした暦。それ以前は、月の満ち欠けを基準にした太陰暦を用いていて、日本の行事のなかにはまだ太陰暦を基準にして行われているものがたくさんあります。

例えば、仙台七夕祭りは8月ですし、東京では7月にお盆を迎えますが、8月にお盆を迎える地域も多く残っています。

地球上の生物は皆、天体の動きに合わせて、身体が働くようにできていますし、私たちの生活は天体の動きに合わせてスケジューリングされています。

これが一番大きな、他者とのつながりでしょう。

旧暦では、1年を冬至と夏至、春分、秋分で4等分し、その真ん中に「四立(しりゅう)」、立春、立夏、立秋、立冬を定めて、45日ずつに八等分「八節」します。これをさらに3分割したものを、「二十四節気」と呼び、季節の移り変わりを表してきました。

太陽の動きを基準にした自然のリズムを、生活の基準にしていたわけです。人間の胎内時計が、光のリズムにしたがって動いているのと同様に、生活のリズム(年中行事)も太陽の動き(植物の開花、野鳥や動物、昆虫の出現、気象、月の満ち欠け等)に合わせていました。

現在の行事は、旧暦の日付をそのまま新暦に移してしまったために、実勢の季節感と一致しない行事になってしまっていますが。

私たちは、落ち込んだりすると、何かでストレスを発散して元気になろうと考えます。

同じように、日本の行事は、四季折々、自然のエネルギーと恵みに感謝し、一休みして栄養を取って、疲れを癒やし、元気になる活力を養って、次の季節を迎えるために行われてきた、智恵の結晶なのだと思います。

日本には、古来より、ハレ(晴れ)とケ(褻)という概念がありました。

ハレは年中行事やお祭りなどの非日常をさし、ケは仕事などの日常をさしていて、明治時代になるまでは、行事などのときに着る服を「ハレ着」、普段着を「ケ着」と呼んでいました。

平凡な日常が続いて気が枯れた状態がケガレ(気枯れ)であり、精神的なパワーが弱くなって汚れやすくなるので、気が病むと「病気」になりやすいと考えていたのです。

こんなときは、ゆっくり休んで、おいしいものを食べて、気晴らしするのがいちばん。そうすると気が元にもどるから「元気」になります。そこで、所々に行事があり、仕事を休んで祭りを行い、晴れ着を着て、晴れの場に臨み、ご馳走を食べて、元気になって日常の暮らしに戻りました。

こうした「ハレ」と「ケ」を繰り返し、日本人はいわば、エネルギーを充電して、レジリエンスを強くしながら、たくましく生きてきました。

「穢(ケ)」を現代風に言えば、ストレスを意味しているのですが、活力もストレスも、その人の心のうちから湧いて出てくるもので、その根源は食にあります。

日本人が、古代から、生活全体のトータルバランスのなかで、メンタルヘルスを意識していたことは、文字の歴史に現れています。

「気」はもとの字は「氣」。意味は、①客に送る食料、食事のおくりもの。②空気、いき。活動の源泉となるもの、元気、ちから、いきおい。

「气」は、すべての精気の発するものであるから、その精気を養うものとして穀物・食物を「氣」という。

「氣」と「乞(きつ)」はもともと同字で、祈り求める意に用いられ、ものの内部にある精気が外に発する様子をいう。「食(け)」と同系の語とみわれる。

国語の「け」は、内なるものが外に現れることを意味し、「食(け)」のように精気の根源を意味する。「氣」と極めて語義の近いものである。

「穢」も和音を「け」とする。清浄を損なうものをいう。中世には、「晴れ(はれ)」の対義語として用いられた。

『字訓』『字通』(白川静著、平凡社)より】

■年中行事の意味

日本の神様や先祖の霊は、「山に宿る」と考えられていて、春の彼岸には、五穀豊穣を祈ってお祭りをして「田の神」としてお迎えし、田植えの終わる半夏生(はんげしょう/7月2日頃)の頃になると、田植えの終了を見届けた「田の神」を山に送る神祭りを執り行い、数日の休養と栄養を取る習わしがありました。そして、秋の彼岸には、収穫に感謝してお祭りをしておりました。

農事や漁撈が繁忙期に入る前に、山野に出かけて食事をしたり遊んだりして、終日を過ごす習わしがあり、これを野遊び、山遊び、磯遊びなどと呼んでいました。これが今日の、遠足や花見、潮干狩りの起源だと言われていますが、農事に先立って、「田の神」を迎えるために野山で宴を開き、神と共に食事をすることによって霊力が授かると考えられていました。また、磯遊びは、水辺で行う祓えの行事に通じるものとも考えられています。

日本の行事を紐解くと、幸せを願って邪気払いをしたり、豊作祈願をしたり、収穫を祈ったりする内容で、そのほとんどが農耕神事や宮中行事として行われていました。日本人は、さまざまなもののお陰で物事が成り立っていると考え、折々に感謝と祈りを捧げてきたといえます。

祭りは神様への祀りごとと農耕の節目ですから、感謝と祈りを捧げ、気力を整え、元気になることと一体だったのでしょう。ですから、行事には必ずお供えものがあり、これが行事食となり、食文化として受け継がれました。

「桃の節句」のように現在は「節句」と書きますが、本来は「節供」と書かれていて、季節の節目に、お供えものをすることや、お供えものを食べて元気になることが行事の本意だったことを示しています。節供料理には、栄養をとるだけではなく、旬のものから“気(エネルギー)”をいただく役目がありました。

今でも、行事本来の意識は薄れても、行事食だけは残っている例は多くあります。たとえ正月らしいことができなくても、お節料理やお雑煮だけは食べる・・・・というのは間違っていないのです。

自然からいただいた多くの命をいただく、神様と同じ食事をする、その食事を用意してくれる親の愛情を感じながら食事をする・・・・四季折々の行事を通じてさまざまなものとのつながりを感じる、その有難さを実感しながら食事をするのが私たちの元気の源になるのです。

それが時代とともに家庭に浸透していくと、祈願の対象がより身近になって、家族の幸せを願うものになっていきました。

たとえば、神社の節分行事は地域や氏子のために豆まきをしますが、家庭なら家や家族のために豆まきをするというように、家庭で行う年中行事は、何事も家族に結びついていくわけです。その結果、千羽鶴に見えない気持ちを託すのと同様に、行事に関わるすべての物事に幸せになるための思いが託されるようになりました。

つまり、日本の行事は幸せを願う気持ちを形にしたもので、それが家族に対する愛情表現になると言えるのです。受験のときに、せめてお守りを持たせてあげたいと思う親心と同じで、思いを込めて行う行事は、子どものお守りになっていくでしょう。

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