《私が東京勤務になったのは、長男が小学校入学、次男が幼稚園の年中組に上がるとき。私の父が転勤族だったので、子供たちも“故郷”や“幼馴染み”って言葉とは、縁がなくなるのかなと思っていました。

結局、13年間東京勤務で、私が単身赴任して東京を離れるときには、官舎の二重貸与が許された時期。そのまま子供たちは高校を卒業して東京で大学へ行き、就職も東京。すっかり東京が地元になっていて、今でも小学校の友達と集まっているという。二人が、小学校のときの同級生が色んな職業に就いてバラエティに富んでいて一番面白い、と言うのを聞いて、親としても運が良かったなと思います。

私は、転校は2回しかなかったし、行った先々で友達が出来て楽しかった思い出しかないけれど、それでもやっぱり“故郷”といえる場所があり、“幼馴染み”というつながりを感じる友人がいるっていうのは、ちょっと羨ましい気がしてきます。》

「利ちゃん!やすおをいじめないでね!」前回と同じく、会話から入りました。これはかれこれ62年前の私に投げかけられた、幼馴染みのエミの言葉です。ところが先日、「利ちゃん!もっとやすおをいじめておいてくれたら良かったのに」と云われました。

やすおはエミの弟で、私をあの東京タワーの下のプール、マソニックに紹介してくれた人物です。エミとやすおは松本と云い、64年前に関西から引っ越してきた家族です。家は前の龍圡軒のあった新竜圡町12番地の斜め前に超モダンな2階建ての洋風建築でした。今でも覚えています。1階は、車が2台は入る駐車場。お客様用の玄関。そしてリビングルーム。奥が芝生のある中庭。リビングから廊下へ右にトイレが付いたバスルームとキッチン。このキッチンに普段使いの裏口。そして右に事務室。その奥に子供部屋と2階に上がる階段。そしてご両親の寝室で、2階は作業場でした。

ご両親共々モダンで、あの昭和32年当時、お二方とも英語を話されていたように思います。憶測で書いてはいけないのですが。

お母様は、室内装飾デザイナーで、2階に作業所があったのです。確か4~5人のスタッフの方が働いていたと思います。子供たちも東京のインターナショナルスクールの走り、元麻布に今もある西町スクールに通っていました。エミはアメリカンスクールへ。そして上智大学のインターナショナルに進み、お母さんの後を継いでいます。そして私の友人「利ちゃん!やすおをいじめないでね!」のやすおは将来を考えて、青山学院に行きました。今日の主人公やすおは私より1歳半下で、でも身体は私より大きかったです。

ご近所の遊び仲間の中心は純平ちゃんという慶応ボーイ。と云ってもこの頃ですので幼稚舎で、おじい様は人間国宝の鼓奏者でした。こちらの家は、私にとって時代の宝箱で、このおじい様のお母様がご健在でいらっしゃいました。なんと江戸時代生まれの小さなおばあ様で、庭には何枚も細長い板があり、ある年齢の方々以上にはすぐに分かることですが、洗濯板で、洗い張りの板です。こちらのお宅では、子供以外は全員和服でした。そしてあの有名な五右衛門風呂です。板を沈めて足で回し、引っ掛けて入りました。そしてこのおじい様の威厳。私にとって人生で一番はじめに怖いと思った人でした。でも何度か声をかけられて、優しい人だと分かりました。そして純平ちゃんのお母様もいつも着物でした。

1階には、私が秘密の部屋と呼んでいた現像室がありました。あの赤い色の部屋の記憶が残っています。父から聞いた話では、お母様は新進気鋭の女流カメラマン(ウーマン)だったそうです。そして人生初のプールも純平ちゃんとともに連れて行ってもらいました。

お母様にはなんとお詫びしたら良いやらで。

5歳の頃の日曜日の朝、7時半に純平ちゃんちに遊びに行ったのです。当然、まだ寝ている時間なのです。そこは子供。出てくるまで外で呼んでいるのです。しばらくすると純平ちゃんのお母様が窓から顔を出して「利ちゃん、まだ早いから、またあとでね」と云ってくれました。私は一度家に帰り、しばらくするとまた行くのです。純平ちゃんちに。そして「純平ちゃん、遊びましょ」とやっていると、お母様が「利ちゃん、またあとでね」と、これを2~3回、毎週繰り返し行っていました。よく私の家に怒鳴り込まなかったと思います。本当に申し訳ありません。

その後、私の隣の家の外国人が、子供さんがメイドさんに日本語で育てられていて英語が話せないので本国に帰りました。そこに純平ちゃんのお母様が借りて、日本タッパーウェアを始めたのです。今も西麻布にタッパーウェア社があります。

純平ちゃんを中心に、私、やすおで遊んでいました。

やすおが大学卒業後デザインを学びにニューヨークへ行ったのでした。そして私がフランスから帰って来たときに遊びに来たやすおと情報交換で、ちょっと大げさですね。そのときの話しで、ちょっとびっくりしたニューヨークがありました。

1978~9年のことです。やすおは折角世界一の都市ニューヨークに来たのだから一番良い物を見て買おうと思ったそうです。そしてデザイン学校に入学すると、ニューヨーク一という文房具屋さんに行き、「アメリカ製の一番良い筆記用具を下さい」と云うと、そこに書いてあるロゴがPentel。そんなバカなと思い、これはMade in Japanだと云うと、いや、これはアメリカの会社Pentelの商品だとの一点張りだったそうです。

この件は私もすぐに「ああ、自分たちが世界一だと思っている。他のことに興味を示さない典型的なアメリカ人」と理解しました。そして次には、新宿行きと書いてある地下鉄に乗ったら、なんと渋谷に着いた、と云った地下鉄が走っていると。やすおに、さすがにこれは本当かと聞くと「利ちゃん、本当なんでびっくりだよ。これをニューヨーカーに云うと返ってきた答えが、これがニューヨークだ」でした。

でも「利ちゃん、彼らの発想というか想像力、日本人ならば考えないようなものを作ってくるんだよ」と。それはある部屋の縮小モデルを作る作業で、三角形の部屋とか真ん丸の部屋だとかだそうで、やすお曰く「彼らは、のこぎりで真っ直ぐに木も挽けないのに、作ってくるんだからびっくりするよ」。

これも分かります。

私たちが世田谷で見ていただいた吉野先生のご主人が、ニューヨークに勤めていらっしゃったときの住まいが33階建てのマンションの15階。夜遅くご夫婦が帰ってきたときに、ドアーを開けると真っ暗なはずの部屋に一筋の灯りが射していたそうです。何だろうと元を追っていくと、窓枠とコンクリートの間に3~4mmの隙間があったのです。普段はカーテンで隠れていたので分からなかったようです。

やすおは年齢が一番若かったのと性格が穏やかなので世間でよく云う味噌っ滓的存在で、彼もそれに甘んじていました。高いところで遊ぶ場合でも、2回落ちてもセーフとかでした。

そんな彼もニューヨークでは苦労していたようで、小遣い稼ぎで空き缶集めをしたときに朝7時に拾っていたら、ライバルが現れ、翌日は30分早く行って拾い、お互いに少しずつ早くなっていったそうで、朝4時になった時点で止めたそうです。

その後、中国から送られてくる段ボール箱にギュウギュウ詰めの洋服にスチームをかけてプレスするアルバイトを最後に帰国。

アメリカ土産は、アメリカで飲んだ各州の地ビールの空き缶120本。トランクに詰めて、成田の税関でトランクを開けたときに呆れられたと云っていました。

良い友です。そんなやすおの姉エミはしっかり者で、現在住んでいるのは、何と貸しマンションで、あの64年前の建物の後にビルを建て、今回はご主人が中心になり、ご近所と一緒に30数階の高層マンションを作りました。

そして一言。「利ちゃん。だって管理費が高いじゃない。バカバカしい」と云って、自分の作ったマンションには入らずに、もっと安い近くのマンションで生活しているエミ。好きだよ。元気で居よう!!

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